「文学とは何か」読書メモ② 精神分析批評について

「〜である」ことと主体性

 

 私は人より長いモラトリアム期間を過ごしている。教員になるために2つ目の大学に通っている。これは私個人の能力ではなく,私の家族の多様性受容能力の高さあるいは経済的豊かさに起因する。これらがなければ,私は今の道を選ぶことはできなかった。つまり,今立っている地点は,すでに用意されていた道であったとも言えるのである。さらに言えば,就職試験に受かったことで,「私は教員に向いている」あるいは「教員の世界に属している」という信念は強化される。

 しかし,この信念は当然,様々な日常的な出来事あるいは雑念を抑圧することによって生まれるものである。「私は教員に向いている」という信念であれば,それとは異なる感情・行動を抑圧することで,理想的な「教員」像と「私は教員に向いている」という信念を形造るのである。

 ラカンを経由してアルチュセールが言ったのは,以上のことである。信念=イデオロギーは,イデオロギーの持主を「従属化」することによって,その持主を「主体化」する。「私は教員に向いている」という信念は,「私」を抑圧することによって,「私」を主体化するのだ。

 イーグルトンは,このアルチュセールの議論を「イデオロギーが私たちを隷属化する抑圧的な力であることが当然の前提のごとく考えられていて,イデオロギー闘争の場としての現実像がはいりこめる余地がほとんど残されていない」(p266)としているが,ラカンの議論が社会と無意識について考えていることを正しく見抜いているとしている。

 ここで論じたいのは,精神分析がポスト構造主義と同様に,人間や言語が,出来上がっているものではなく,闘争の上で成り立っていると主張しているということだ。〈教育〉というイデオロギー装置のことを考えれば,学校という場が闘争の場であることがわかる。教師は自身のイデオロギーと地方教育委員会あるいは国の機関のイデオロギーとを照らし合わせながら,児童・生徒・学生の主体化を図る。児童・生徒・学生もそれぞれのイデオロギーをもちこんでいるので,学校という場は児童も含めたイデオロギーの闘争の場であると言える。学校はその闘争の結果,イデオロギー装置となるのである(体罰容認教師みたいだ)。

 

精神分析の可能性

 イーグルトンはフロイトラカンマルクス的な方向に引き伸ばそうとしている。つまり,個人的なものと社会的なものとを接続して論じるにあたり,精神分析は有効であることを説明している。イーグルトンは,ロレンスの「息子と恋人」を論じて,語られていないこと語られ過ぎていることをあぶり出し,テクストがどのように加工されているかを見ている。

 イーグルトンによれば,加工の理由と過程,つまりなぜ抑圧され,どのように抑圧されたかを見ることによって,それは実践的な読みを構築することができるらしい。

 文学を読むことは,本来娯楽であり,快感原則に則る。近代国家社会にすれば,「権力をふるう側のサディスティックな満足感と,権力をもたぬ人々の多くがとるマゾヒスティックな隷属」(p296)で国家のバランスを保つのに,文学はちょうどよい媒介物である。フロイトの欲望の力学は,それらの諸関係を記述するだけにすぎないかもしれない。

 しかし,フロイトの可能性は,その記述によって,「私たちが高く評価している諸目的を捨て,欲望を卑しめおとしめるような諸目的へと,欲望はいかにして方向転換させられるのか?」(p296)など国家や社会・集団と,個人との関係を解き明かしてくれるかもしれない。

 

日本の文学あるいは文学を読むことについて

 この記述でわかるように,イーグルトンは明確にフロイトマルクス的に読むことによって,文学を政治的に(実践的に)することに可能性を見出している。

 明治・大正・昭和前期の日本で,文学をより政治的に利用することが出来たのは国家の側である。断じてプロレタリアではない。プロレタリア文学の失敗は,「私たちが高く評価している諸目的を捨て,欲望を卑しめおとしめるような諸目的へと,欲望はいかにして方向転換させられるのか?」(p296)などの人間の精神的力学をまったく無視していたことにあろう。戦争を経て,今,文学は個人的な趣味として見られるようになった。

 しかし国語教育では,「文学的文章の詳細な読解」を廃し,より実践的な読みが希求されている。これはイーグルトンを絡めれば,個人的な「読むこと」が再び社会的な「読むこと」として求められているということであり,政治的な力をもつということである。

 現代における,政治的=実践的な力をもつ「読むこと」とは一体何なのか。いや,「読むこと」についてどのように語らずにあるいは語りすぎるのか。これが当面の問題である。