ウォルター・ベン・マイケルズ(2006) 「シニフィアンのかたち 一九六七年から歴史の終わりまで」読書メモ①

イーグルトンあるいは理論の後に

ポストモダニズムの世界をもっと過激に劇画化したものに、ウォルター・ベン・マイケルズの『シニフィアンのかたち』がある。マイケルズは、ポストモダニズム本質主義か反本質主義であるかにかかわらず、イデオロギーではなくアイデンティティを問題とするようになったことを指摘している。これは、イーグルトンが描写した世界の劇画化である。イーグルトンの議論と接続することができる第1章から見ていこう。
 

冷戦の崩壊

 
 イーグルトンが新版で後退していたのは、冷戦の崩壊によってだった。理論(とりわけポストモダニズム)は冷戦の崩壊において、決定的な要因にはなりえなかった。マイケルズがまず注目するのも、冷戦の崩壊であり、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」である。
 マイケルズは、まずフクヤマの「歴史の終わり」をフクヤマの意図通りに解説する。フクヤマは、冷戦における資本主義の勝利を、マルクス主義の誤りだとした。つまり、「経済的な不平等の根本的な原因は、われわれの社会の基盤にひそむ法的、社会的構造とはかならずしも関係していない」(p46)という結論である。例えば、アメリカにおける黒人の貧困は、資本主義のせいではなく、奴隷制の遺産であると言える。このように、アメリカ現在のリベラル資本主義に根本的な欠陥があるのではない、なぜなら資本主義は現に勝利しているからという考え方が見られる。このとき、集団は「階級」でくくることはできなくなった。それに付随して「イデオロギー」でくくることも不可能になった(まさに、イーグルトンが想定した状況ではないだろうか)。アメリカの勝利が、ロシア人も資本主義(あるいはアメリカの「民主主義的な普遍主義」)をついに信じることになったということならば、アメリカの「民主主義的な普遍主義」は、アメリカ独自のものではなくなる。イデオロギーの差異の代わりに持ち出されるのは、アイデンティティの差異である。冷戦以降の集団にとって重要なのは、「彼らが何を信じるかではなく彼らが何者かであるかである」(p52)。
 冷戦期はイデオロギーの差異、冷戦以降はアイデンティティの差異が対立を生んでいる。それぞれを詳しく見ていこう。
 

イデオロギーの差異

 冷戦期の対立は、「あなたはどちら側に与するか」であった。アメリカとロシアの対立は国を超えて社会システム・政治的理念の対立となり、どちらが普遍的なものなのかという問いを生んでいる。この対立の勝利は、相手側にこちら側の信念を信じさせることを意味する。この対立をマイケルズは「意見の不一致」と呼ぶ。
 

アイデンティティの差異

 アイデンティティの差異は、「意見の不一致」ではない。なにが真実か、という問いに対する答えの違いは「意見の不一致」だが、何を欲するか、あるいはあなたは誰か、という問いに対する答えの違いは「意見の不一致」ではない。「何を欲するのか」という問いが「意見の不一致」ではないことを端的に示すのが、テクストのポストモダニズム的な理解である。スタンリーフィッシュは、「詩を読むこと」を「各々が解釈によって構成した詩を読んでいる」と論じた。つまり、詩は読む主体に応じて変化するために、解釈の差異は解釈の対象の差異となる。さらには、解釈の対象の差異は、主体に起因すると考えられる。そもそも主体の位置が違うために、「意見の不一致」ではないのである。ここには、同じ位置に立っているのならば同じ意見が出てくるという論理がある。つまり、資本主義という基盤のもと、同じ位置にたつもの(同じアイデンティティを有する者)の連帯は可能で、そうでなければ不可能なのである。
 

ポリティカルSF

 マイケルズが面白いのは、アイデンティティの差異をSFを使って述べている所である。特に、異星人と人間が出会うようなSFである。
 例えば、異星人との対照は、人類間の差異を問題ないものにする。
 
『ゼノジェネシス』(引用者注:オクティヴィア・バトラー著の三部作。『黎明』(1987)、『成人の儀式』(1988)、『イマーゴ』(1989))のヒロインはアフリカ系アメリカ人であり、そしてそこに登場する人類(アジア系、ラテン系、白人)は現状の多様性の規範にもっとも適合しているが、しかしそこで、口をきいて触手のあるウミウシに人類が対峙させられるとき、肌や髪の色の違いは無意味なもの(いわば身長や体重の差異とおなじもの)としてしめされるだろう。(p64)
 
 人種で差異を生んでいた人類は、ウミウシと対立させられることで、その差異を決定的になくすのである。しかし他方で、「人類と異星人の決定的な差異は身体における差異だとされているのだから、異星人との対照は、身体的な差異をある意味で意味あるものとしている」(p66)。そう、差異はこうやって肯定される。
 

「SF的異種族混交」から見る、本質主義と反本質主義の対立

 SF的な考察は、異種族混交にも及ぶ。『ゼノジェネシス』には以下のような場面もある。
 
「人間は、差異を恐れるの」ある人間の母が、なかば人間でありなかば異星人である彼女の息子に言う。しかし、 その息子が差異への人間的なおそれを遺伝していたとするなら、彼はその反対もまた、異星人の祖先からうけついでいるのである。オアンカリ人は、母は彼に言う、「差異を渇望する」のだと。(p70)
 
 オクティヴィア・バトラーは、「同一性と差異の紛争」を構築している。人間は人間的であろうとするために人間同士の交配を望み、逆にオアンカリ人は多様性を称揚して異種交配を望む。
 しかし、ここで注意したいのは、同一性と差異は、実は「相互補完的なペア」(p71)であることだ。人間の「人間でありたい」という欲望は、人類内部の差異への恐怖であると同時に、異星人からの差異への欲望でもある。同時に、異種交配が徹底的に進んだ世界では人種という考え方がなくなってしまうことを考えると、オアンカリ人の欲望は、「差異の賞賛の表現であるならば、また同時に、差異を撲滅するテクノロジーである」(p72)。
 この同一性と差異の表向きの対立と実際の共犯関係は、本質主義と反本質主義にも当てはまる。本質主義は、差異を変えられない身体的なものと規定し、同一性を称揚する。反本質主義は差異を文化的なものと見なし、同一性を最終的には決定できないものと見る。しかしこの二つの立場は、結局同じことについて同意している。それは、「差異の価値についての同意」、「差異とおなじもののあいだの対立、自己と他者の対立の価値についての同意」なのである。
 差異の価値について同意があるとき、もう差異の理由あるいはアイデンティティ獲得の理由はどのようにでも作れてしまう。キム・スタンリー・ロビンソンの火星三部作(『レッドマーズ』(1993)、『グリーンマーズ』(1994)、『ブルーマーズ』(1996))において、以下のような場面がある。この火星三部作における火星人は、地球からの移住者である。そのため、地球人とまったく異なるところがない。しかしそれでも火星人は火星人としてのアイデンティティを獲得するに至る。
 
「われわれの身体は、ごく最近までその土壌体の表土の一部であった原子からつくられている」火星人の指導者は言う。「われわれは徹頭徹尾火星人である。われわれの火星の命ある一部なのだ」(p76)
 
 こうして、「火星でつくられている食べ物を食べているから」という理由でアイデンティティが形成される。もうどんなイデオロギー的な違いも、異なった人種も異なった文化も必要なく、「異なった場所さえあればよいのだ」(p76)。こうして、「諸アイデンティティが流動的か決定的かという論争の誕生は、じつのところ、アイデンティティの重要性についての同意の誕生」(p79)であることが示された。