「文学とは何か」読書メモ

●「文学とは何か」を読む意義

 イーグルトンの「文学とは何か」は,大正期国語教育の理論を批判する上で示唆を与えてくれる。大正期国語教育は文学界から自然主義や解釈学の遺産を受け継いだ。イーグルトンはその自然主義や解釈学を批判している。

 例えば,解釈学的態度を以下のように説明している。

 

私たちは,テクストに対して虚心に自己を開かねばならない。テクストの神秘的な無際限なあり方に自己を従属させ,自分がテクストの方から問いかけられるようにせねばならない。(p102)

 

 この「虚心の自己」は,垣内松三が読むときの態度について,「自然な態度」で読めばよいと語ったのと同じである。テクストは自然で万能であるので,読む自己が心を開さえすれば,あるいは心を澄ませばテクストは自ずと読めてしまうのである。ありのままの姿を見せれば,世界は認めてくれるのである。

 

●ポスト構造主義の態度

 

 解釈学あるいは自然主義の考え方に政治的な匂いを嗅ぎつけ,批判したのがポスト構造主義だろう。解釈学や自然主義が勧める「ありのまま」は,実は仮構されたものである。テクスト自体も仮構されたものである。

 ここでイーグルトンは,ポスト構造主義の軽薄な側面を指摘している。

 

他人の抱く意見をいたずらっぽくラディカルに茶化してやる,つまり,どんなに厳粛な宣言でも,それを記号の無頓着な戯れにすぎぬものとして仮面をはいでしまうことが可能である。(p223)

 

あなたは,なにもコミットしないわけだから,あなたがなにを言おうと論拠は空白であり,ゆえにその発言は,人を傷つけない。(p223)

 

 ポスト構造主義は,政治的には後退している。言語が特権的な機能として働くことを拒否することで,「現実」に影響を及ぼすことのない「戯れ」として言語を規定する。

 そこでは,バフチンが「言説」と呼んだ言語――「私たちがおこなう行為としての,私たちの実践的生活形式と不可分にからみあっているものとしての言語」(p226)――の姿はない。言語は亡霊のように自身の存在根拠を欠いたまま,周囲を這いまわるのである。

 

●再び国語教育

 解釈学あるいは自然主義的なものを経て,軽薄な側面のあるポスト構造主義に至った後,希求されるのは当然バフチン的なものである。ポスト構造主義を経験した私たちが,それでも「真理」「現実」「知識」「確実性」を獲得するのには,それらの価値が出来上がる瞬間に立ち会い,その過程を描き出すことにあるだろう。つまり,死んだ修辞を学ぶことではなく,生きた修辞を作り出すことにある。