「シニフィアンのかたち」読書メモ⑧

ポストモダニズム世界

 マイケルズは,ポストモダニズムを正しく批判している。ポストモダニズムにおける多文化主義の中の1つの文化を提出するのではなく(つまりポストモダニズムの代替案を提出するのではなく),単に批判している。ポストモダニズムの論理的な齟齬を指摘するのである。

 本書の要点は,客体そのものという考え方が,主体の位置がどこにあるのかを想起させ,アイデンティティを重視させるものになるということだった。つまり,意味をもたない物質が,見る者(読む者)の反応を無限に引き出すとき,問題となるのは見る者(読む者)が一体誰であるかだけであるということである。そしてこれが,ポストモダニズム世界の見取り図であり,マイケルズは挑発的な口調で(あるいは実直に指摘することで),それを説明している。

 このポストモダニズム世界は,様々な現象を起こしているだろう。文学を亡きものにし,多文化主義を肯定し,貧困でさえもアイデンティティとして加工してしまう。本書は,それらの(世間では常識とされているような)ことを否定したいような気持ちにさせるが,しかしその代替案は明確には提示されない。

 文学を亡きものにしないために,「作者の意図を認めようよ」ということがマイケルズとナップの「反理論」の要点である。しかしそれを社会に敷衍すると,基盤主義を再び呼び起こし,ポストモダニズム世界からの批判は逃れられないものだろう。ただの啓蒙主義イデオロギー主義に捉えられかねない。

 もちろん,そのことによって「意見の不一致」を再び成り立たせるのだということが,マイケルズの意志なのかもしれない。アイデンティティの尊重によって不可能にされてしまったことを復活させるのである。それでもしかし,その復活は,単に多文化の1つとして飲み込まれてしまうような気がする。そのため,文学については「作者の意図を導入しようよ」と提案していたマイケルズも,そのことによって社会がどうなるかについては論じていない。

 本書はここで終わり,そして,歴史は,いまだ終わったままである。(p307)

イーグルトンの後継者は?

 さて,イーグルトンの「文学とは何か」を経由して本書を読んだのだが,イーグルトンの意志(「連帯」は可能か?,あるいは文学理論の政治的批評は有効でありうるか?)は受け継がれていただろうか。当然,そうだったのだが,しかしマイケルズではなく別の候補者がいた。ハートとネグリである。

万国の労働者よ,団結せよ!――ナショナルなアイデンティティによってではなく,国境や境界を無視し,共通の欲求と欲望を介して直接に(p302)

 上の言葉について,マイケルズは「アイデンティティの批判のようにみえるかもしれないが,実際には,たんにアイデンティティの配置換えでしかない」(p302)とする。ここのマイケルズの「普遍性」の概念の対置は面白い。マイケルズは,普遍性とは信じる信じないにかかわらず,誰にとっても真である(あるいは真ではない)状態を指すという。しかし,ハートとネグリは,「欲求と欲望」という言葉を使っているように,「普遍性」をそれぞれの労働者の欲望が一致した場合に起こる可能性として扱っている。こうして,普遍的な真なるものを信じる(たとえそれが間違っていようとも)ことによる連帯は,不可能となるのである。そしてまた,ハートとネグリは貧困をアイデンティティとして扱う。貧しき者だけが「アクチュアルな現在の存在を根源的に生きるものである」(p304)とすることによって,貧困のアイデンティティを構成してしまった。マルクス主義的なものが目指していた金持ちと貧困者の間の差異の終焉は,もう目指されなくてもよいものとなっている。

 ハートとネグリの試みは,アイデンティティの時代ポストモダニズム世界において「連帯」を可能にするものであるのは間違いない。しかし一方で,そのポストモダニズム世界を肯定して,左翼的言説を過剰に適応させているとも言えるだろう。

 イーグルトンの意志は,ハートとネグリか,それを批判するマイケルズか,どちらに引き継がれているのだろうか。きっとどちらも受け継いでいるのだろうが,しかし,より文芸批評家の哀しみを背負っているのは,マイケルズであろう。なぜなら,ポストモダニズム世界に適応することを拒んでいるのだから。イーグルトンの悲哀と同じようなものを感じる。本書で挑発的に(あるいは冷静に)論じてられてきたポストモダニズム世界批判は,まったく間違っていない。こちらがどのようにも納得してしまう。しかし,ポストモダニズム世界はさらに強力であることが,本書によって証明されてしまっている。当然,結論などないのである。

 とりあえず,ポストモダニズム世界の把握という点で,とてもおもしろいものだった。文学理論が,なぜいわゆる「弱者」というものをこの30年・40年くらいで論じているのかがよくわかった。そしてその強靭さはポストモダニズム世界というかもっと広いレンジをもっているのかもしれないとも思う。例えば,「言葉より行動だ」という言説の無意味さは,今にはじまったことではない。言説はアクチュアルであるべきだという言説はいつの時代でも述べられてきている。私は,とりあえずそのような言説から距離をとりながら,あるいは多文化主義的な態度から距離をとりながら,一方で多文化主義に参画していくほかない。そう,これは決断主義である。

 イーグルトンやマイケルズに悲哀を見てしまうのは,またその悲哀を少し笑いながらあるいは涙しながら見てしまうのは,私が彼らを代理としてポストモダニズム世界に抵抗しようとしていたからである。そして,大正時代に興味があったのは,まだ意見の不一致が成り立っていた時代であった(信念という概念が信じられていた)からかもしれない。そして,それらを過ぎ去ったものあるいは今現在のものとしながら,私はポストモダニズム世界に生きていくのである。