「文学とは何か」読書メモ③ 政治的批評について

社会主義批評とフェミニズム批評について触れない訳

 イーグルトンはこれまでの章で社会主義的な考えやフェミニズム的な考えについて解説してきた。精神分析批評の章では,精神分析社会主義的に可能性を引き伸ばすこと,またフェミニズムからどのように批判されあるいは利用されているのかを解説していた。しかし,イーグルトンはこの2つの批評について章を割いて論じようとはしていない。

 

そのような解説によっておそらく読者は,「政治的批評」も,私がこれまで論じてきた批評方法と並ぶいまひとつのアプローチにしかすぎず,その前提事項は異なっていても本質は同じだという誤った考え方へと導かれるだろう。(p324)

 

 イーグルトンが最後に述べる「政治的批評」は,今まで解説してきたものとは明確に異なる。

 

論ずる対象とは何か,あるいはその対象にいかにしてアプローチするか,を最初に問うことではなく,そもそもなぜ私たちはその対象との関わりあいを望むのか,それを問うことを意味する。(p322)

 

「文学の正典」を作り上げてきた人たちには,なぜ私たちがそれに関心があるのかを説明できず,むしろそれがわからないならお前はバカだ式の方法で,疑問をもつ者を「政治的」であるとレッテルを貼ってきた。自分が政治的であることに気づかず,また文学を個人的なものにしてきたのである。イーグルトンが指摘したように,このような文学的内向性は,「人間生活の社会的ひろがりを,孤独な個人的営為へと従属させようとする政治システムの価値観を正しく反映している」(p303)のである。

 

 それとは異なる「政治的批評」とは,なぜ「対象との関わりあいを望むのか」,その関心を問うことである。この考え方は構成主義などと類似した考え方だ。関心に沿って,その対象と方法を選択していく。

 例えば,教育哲学でいくつか著書を出している苫野一徳は,教育の中に「目的・状況相関的方法選択」の原理を取り入れることを主張している。

 

教育のあり方・方法に,絶対に正しいものなどありません。それは「目的」を達成するために,「状況」に応じて使い分けたり組み合わせたり,新たにつくり上げたりするべきものです。(苫野一徳「教育の力」,p41)

 

教育の力 講談社現代新書

教育の力 講談社現代新書

 

 

 

 苫野は教育の「目的」と「方法」とを区別して,方法は「目的・状況」に沿って柔軟にすべきだとしている。教育の目的については,苫野はすでに現象学的に考察しヘーゲル的な〈自由の相互承認〉を導き出している。これはイーグルトンの関心がマルクス主義にあり,そのために文学理論の様々な方法を探索するのと同様の振る舞いである。

 

 言語ができる瞬間に立ち会うこと,あるいは信念が出来上がる過程に参画すること,自身がなぜそれに関心があるのかを問うこと。死んだ修辞をもう一度甦らせること。今,多くの理論と呼ばれるものが自身の関心を記述することに注意を向けている。読むことを社会的実践として規定するとき,以上のことが重要であろう。

 

イーグルトンの寓話

私たちは,ライオンがライオンの調教師よりも強いことを知っている。そしてライオンの調教師もこのことを知っている。問題は,ライオンだけがそれを知らないことだ。文学の死が,眠れるライオンの目を覚ますことに役立たないとは,だれにも断言できないのである。(p332)

 

「文学」はさしずめ,調教師のもつ鞭である。ライオンが労働者あるいは大衆だとすれば,「私たち」とは何だろうか。この寓話では,「私たち」はライオンともライオンの調教師ともほぼ関わらない場所で文学の死を見つめているに過ぎない。しかし,同時にイーグルトンのテクストの読者でもある。このとき,「私たち」は目覚めたライオンに変化することも可能である。読者は,その関心のままに,立ち上がることもただ眺めることも可能である。

 学校は「私たち」と同じ立場にある。読者としての「私たち」は,ライオンにもライオンの調教師にもなることができる。そして,文学の死を宣言することもできるのではないか。文学の死を宣言し,読むことの実践者となり,読むことの実践者を育てる者となることが,学校の立場ではないか。それは当然,「読むこと」のみによって可能になるのである。