「シニフィアンのかたち」読書メモ⑥

「第三章 歴史主義」は,前半は歴史もテクストではなく,「しるし」(が生み出す経験=「記憶」)へと還元され,ポスト歴史主義の社会に利用されていることを論述されている。後半は,その世界における代替案として提出されている論(性愛など)も,ポスト歴史主義を強化するものでしかないことを論述されている。

 

ホロコースト言説

ホロコースト言説」と打っておいてなんだが,ホロコーストは言説ではない。ホロコースト統計学的な出来事でもなく,人々が虐殺された出来事である。しかし,これまでマイケルズが確認してきたポストモダニズムの世界においては,ホロコーストアイデンティティの確認に役立つものとなる。

 ホロコーストは,アメリカにおける黒人やネイティブ・アメリカンの殺戮と同一視されることがある。このとき問題なのは,概念としてのホロコースト――単なるジェノサイドではなく文化ジェノサイドとしてのホロコースト――が想起されている点である。「対象となる何人の人を殺したのかは付随的な出来事でしかなくて,その人々が誰であるかをさだめるところのものこそがホロコーストの対象なのである」(p223)。

 ホロコーストを文化ジェノサイドとして理解する人々は,ホロコーストを学ぶのではなく「記憶」することが重要なのだと述べる。「それについてただしい信念をもつことよりも,過去を体験する(その意味するところがそれに語りかけるだけにせよ」ことにより興味をもっている」(p238)。ある出来事について知ることは不可能である,という懐疑主義的な態度によって,ホロコーストを理解することは安易な抜け道であり,それを忘却することであるとされてしまう。ここで再び論理は転倒される。つまり,理解することが不可能であり忘却することであるなら,理解されないことのないノイズこそが真の証言であり,それを聞くことこそがホロコーストを記憶することなのだ。そして,ホロコーストを記憶することがただしいこと=ユダヤアイデンティティを保護することだとされる。

 ホロコーストが文化あるいはアイデンティティを対象とした大量虐殺とされることで,ヒトラーのそれまでの評価は逆転されることになる。

ユダヤ人とは,第一義的に,宗教上のコミュニティではなくひとつの人種だと断言することで」,実際のところ,「ユダヤ人問題についてのすべての議論を出発させた」あのヒトラーが,こうして,なによりもユダヤの宗教と文化を破壊しようとした者として再想像されるようになる。(p251)

 「ユダヤ人が問題である」ことを顕在化した人物がユダヤの文化・アイデンティティを破壊する者として想像されるとき,ユダヤ人はもう,どんな宗教にも文化によることなくユダヤ人のアイデンティティを獲得する。つまり,ホロコーストを記憶する者,「自身の歴史の一部として承認する者」である。

 

歴史を記憶にし,記憶を体験すること

 こうしてみれば,歴史自体が重要なのではない。歴史を記憶とすること,記憶することで,自身がその歴史を体験することがアイデンティティにとって重要なのである。なぜなら,「あらかじめ自身のアイデンティティを知っていなければどの歴史が自身の歴史となるのかは判断できないのだから,アイデンティティを決定するために歴史をよびだすことはできないのである」(p251)。イーグルトンにおけるポストモダニズムの世界を,マイケルズがポスト歴史主義と呼んでいるのは,このためだろう。歴史の後にくるもの,つまり記憶,体験(から構成されるアイデンティティ)が重要な世界をマイケルズは描写している。

 

※ハウスオブカードのシーズン1最終話見たが,もうどうやってもシーズン2に行くしかない終わり方で,嗚呼見なきゃという焦燥感のようなものを感じる。