「シニフィアンのかたち」読書メモ②〜多文化主義からシニフィアンのかたちまで〜

ウォルター・ベン・マイケルズの論述の仕方

 論述の方向がある程度わかっていれば,あるいは予測すれば,どんなに複雑な論理展開でも安心して読んでいられる。例えば,イーグルトンが示した冷戦以降の世界(あるいは冷戦以前も文学理論が用意していた事態)を補助線として読めば,ウォルター・ベン・マイケルズの論述はそこまで苦労しない。何度も何度も同じことを繰り返し繰り返し述べてくれるので,何度も読者を這い上がらせてくれるのである。

 

アイデンティティの対立とは何か

 アイデンティティの対立とイデオロギーの対立が異なるのは,アイデンティティの対立は優劣を争わないのに対し,イデオロギーの対立は優劣を争うことである。

 これを説明するために,ウォルター・ベン・マイケルズは,リベラル・ナショナリストあるいは多文化主義者が「言語をもつようにして文化をもっている」(p82)とする。

 彼らの基本的な考えはこうである。「われわれは英語がただしく,フランス語はまちがっているとかんがえないように,アメリカ人の信じることとおこなうことはただしくフランス人の信じることとおこなうことはまちがっているとかんがえてはならない」(p82)。リチャード・ローティの反基盤主義はこの考え方で,真実の普遍性を批判する。この考え方により,「ヘブライ人にとってあることがただしく,オーストリア人にとって別のことがただしいとき,それがあなたにとってただしいかどうかを決定する方法は,あなたがヘブライ人なのかオーストリア人なのかを知るしかないだろう」(p82)。こうしてアイデンティティが何かが重要になる。冷戦前にはイデオロギーによって可能になっていた(何が正しいものを信じることによって可能になっていた)「連帯」が,ローティにおいては「アイロニー」を通して可能となる。

 

シニフィアンのかたち

 このような考え方は,文学理論に多大な影響を与えている。1980年代の「シニフィアンの物質性へのコミットメント」(ポール・ド・マンなど)が「ジェンダー,人種,文化」へのコミットメントへと変わったことと,深い関係がある。

 例えば以下の様な事態を考えよう。

 火星の表土の上をあるいていて,いわばこのように見えるしるしにいきあたったことを想像してほしい。「まどろみが私の心を封じ」それは走り書きで,二つ目の文字がなのかなのか,一番最後にあるのは,なのかなのか,あなたは判断できない。(p109)

 このとき,「もしかたちこそがすべてを決定するならば」,「のように見えるものは必然的にでなければならない」(p109)。しかし,それがであるかどうかを判断する基準は,当然それを見る人それぞれの視点によって異なるしかない。文学理論においても,意見の不一致は不可能にされてしまったのである。

 

ポストモダニズム世界

 このとき,差異を称揚する者にとって,以下の様な二項対立が立ち現れる。

 彼等のかんがえる不幸な未来とは,われわれはみなおなじ言語をはなすがたがいに言うべきことのない状態となり,彼等のもとめるハッピー・エンドとは,われわれはみなたがいに異なった言語をはなして,たがいを理解することのできない状態となる。(p118)

 ここでマイケルズが考える意見の不一致と,差異を称揚する者にとっての意見の不一致が異なることは注目に値する。マイケルズにとっては,「おなじ言葉をはなすこと」こそが意見の不一致を可能にするものであるが,差異を称揚する者にとってはそうではなく,言うべきことがない状態となってしまう。エヴァンゲリオン人類補完計画は,その「不幸な未来」に他ならない。

 マイケルズは脱構築を,「他にも主体はいるのだというただの注意書きにいたって完遂する」(p119)と説明する。脱構築も,差異を称揚する理論的な貢献をしている。永遠に互いに理解のできないわれわれは,そういう他者が周りにいることを気に留めることくらいしか,することがないのである。