今さらながら、原爆問題としてのこうの史代の「夕凪の街、桜の国」の論考を読んだ。原著は『原爆文学という問題領域』。

私が素朴に受け取っていたことは、日本という国を簡単に肯定する=自分を肯定するための論理を使っていたという感じがする。こわいねえ。そして、作者のこうの史代自身もそんな感じをただよわせる人なのだ。

ここで、自分的には「夕凪の街」を擁護して、「この作品は戦争の残酷さを示すために『あえて』日常を写しとっているのだ」と評することもできる。そして、その感じは好きなのだ。でも、その『あえて』の身振りは與那覇潤『平成史』

の見方を導入すれば、もうダメなのだ。なぜ、有効でないか。もうそのイデオロギーさえも信じられないからだ。「夕凪の街」で言えば、もう日常が仮構されていることを私たちが知ってしまったためだ。もうその時点で、こうの史代の漫画は現実社会に効力をもたなくなる…とも言える。いや、宇野常寛の言うように、この時代ではなく、この物語は戦後に必要だったのだ。