「シニフィアンのかたち」読書メモ③〜ポストモダニズム世界の言語から,「反理論」についてまで〜
ポストモダニズム世界の言語
テクストのない世界,テクストの解釈が存在しない世界(テクストではなく情報の世界と言ってもよいかもしれない)という幻想こそが,ポストモダニズムもしくはポスト歴史主義の完成型の本質的な要素であると私はかんがえる。(p127)
マイケルズは,以上のように宣言する。これは以下のように例示される。
『アメリカン・サイコ』におけるセックスは,「女の子達」をイカセルことへのベイトマンのコミットメント――まるで声をだしてイクことはパフォーマンスではなく(血をながすことのような)身体からの放出だとでもいうような――に特徴があるのだが,しかし,それが本当であることを保証するために結局彼は,たんにイカセルのではなく,彼女たちの内蔵をえぐらなければならなくなる。かんがえればかんがえるほど,快感はフェイクであるかもしれないのだから――痛みは嘘をつけないのに対して。(p127)
ここでは,言語がまるで血であるかのように,つまり身体的なものとして想像されている。言語は嘘のつけない血液,血痕であるのだ。言語が嘘をつけないものであるとしたら,「テクストを解釈する」ことは不可能であり(言語は単に存在するだけで意味はないのだから),「テクストが与える効果は何か」を問うことだけが可能となる。もし意味を賦課しようとするなら,論理・理性・知性は何の役にも立たず,「力」による紛争だけが意味を賦課することができるだろう(中村三春『フィクションの機構』の第一部と似ている)。
ローティの理解
リチャード・ローティも,同じような考え方を示している。ローティは偉大な文学作品には私たちに「畏敬の震え」を生み出すという。それは,解釈の後にではなく,前にくる。「テクストがわれわれを震わせたかどうかが重要であり,その意味についてのわれわれの描写がただしいか否かは重要でないとき」(p137),「われわれは,自身がテクストを解釈していると理解することはやめ,そこで,それがおよぼす効果を測定しているのだと理解しはじめるほかはない」(p138)。
このとき,「力の紛争」はこのように始められる。「あなたの信念とをあなたの感情と(あなたの解釈をあなたの反応と)書きなおすのであれば,それを正当化するために議論することは不必要でありかつ不可能となる」(p140)。ローティのプラグマティストは,「ある信念が,偶有された歴史的状況よりも深いなにかから成立したものではないことを充分に自覚している人々にとっても,信念はそれでも行動を規制しうるし,そのために死ぬに値するものとみなされえます」(p139)と考えている。そのため,いかなる信念もどのような理由も与えられない(偶有されるしかない)ために,みずからの命をささげること(行動すること)しか認められない(宇野常寛の「決断主義」の考え方と似ている)。
ローティを経ることで,テクストは,プライドを生産するためのテクノロジーになっていることがわかる。意見の不一致は生み出さないが,読者を何者であるかを思い起こさせることができるのだ。
反理論
マイケルズは,ナップと共著で1982年に「反理論」という論文を書いている。
それは意見の不一致を成立させることを企図していた。「反理論」は,作者の意図を導入することで,(真実に達することを可能にするわけではないが)なんらかの真実があると考えることを可能にした。こうして,本書が意見の不一致を見ない世界への抵抗になると思われるのだが,果たしてどのようにして可能となるのだろうか。
イーグルトンの『文学とは何か』では,イーグルトンが理論の終焉を語る。イーグルトンは,理論的には「連帯」が不可能であること(理論が集団を絶対的に個別化してしまっていること)を語っている。同様に,マイケルズも理論の終焉を語る。マイケルズは果たして意見の不一致を成立させ,「連帯」を可能にすることはできるだろうか。この「連帯」を見届けたいがために,私は本書を読むのである。