「シニフィアンのかたち」読書メモ⑤

 すべてがテクストだし,と同時にテクストはない

 ポール・ド・マンは意図的な物体と自然な物体とを分別し,テクストは意図的な物体だと言った(『盲目と洞察』)後,テクストは自然な物体であると言った(『読むことのアレゴリー』)。

 ド・マンのこの表明は,ウィムサットとビアズレーの「意図の誤謬」と「情動の誤謬」のうち,「意図の誤謬」を選択したことを示したものである。

 「意図の誤謬」とは,作品を作者の意図に還元してしまうことであり,「情動の誤謬」とは,作品を読者の反応に還元してしまうことである。新批評家は,どちらも退けようとした。しかし,ド・マンは『盲目と洞察』においては「意図の誤謬」を避けたことで「情動の誤謬」のように,多様な解釈を導き出すことを限定的に賞賛する。つまり,ウィムサットとビアズレーの意図に反して両方の誤謬を避けることは困難である。

 ド・マンはまた,『読むことのアレゴリー』においてはデリダが言ったようなしるし,「物質性」の存在に気付く。『盲目と洞察』における読者の反応は,テクストの意味とは関係のないものであることに気付くのである。読者の反応は,テクストの物質性の読者に対する効果だった。だとすれば,テクストはテクストである必要がなく,読者の反応を生む(経験を作り出す)何かであれば,なんでもよいことになる。テクストに意味はないのだから。こうして,「テクストの外には何もない」から「テクストなどない」は連続性をもつのである。

 またさらに,意味(あるいは幻想)を取り除いた客体の尊重は,それに反応する主体の尊重と連続しているのだ。ポスト構造主義は,典型的にそうなってしまっている。マイケルズが何度も繰り返すように,そこに意見の不一致は存在せず,「ふたりはただ異なっているのだ」(p197)。

ディープ・エコロジー

 ディープ・エコロジーとは,地球も含むあらゆる生命体(つまり川とか山,小石も含む)を人間と同等に尊重すべきものとして扱うべきだとする主張である。人間中心主義的な環境保全ではなく,地球主体(?)の取り組みをするべきだという主張だ。

 これは日本のCMに見られる「地球に優しく」などの,地球を人格化したものではない。地球を文化にし,あるいは数あるアイデンティティの中の一つとして扱おうとする試みである。1973年にアルネ・ネスによって主張されたというのだから,1970年代は恐ろしい時代だったのだろう。

 しかし言語をアイデンティティあるいは文化と考えてしまう人にとっては,ディープ・エコロジーを正当なものであると言うほかない。なぜなら,地球も言語をもっている,川も,小石もと考えると,単に「しるし」である川の状態も保持しないといけないと考えることになる。つまり,意図のないしるしも,アイデンティティと同じように尊重するほかないのである。これは,この時代もしくは冷戦以降に「他者性」をもつ様々な理論が花開いたこと(ポストコロニアルフェミニズムクィア)とまったく同じ構造をもっているだろうことが示唆されている(イーグルトンに言わせれば,その動きは理論の新しさを生みながら,実は決定的に「連帯」できないように個別化されている)。

効果の無限性は,なぜ記号をしるしにするか

 ここまでの話は,脱構築などのポスト構造主義の犯行を立証するようで,それが逃れようもないことだったと弁護しているようでもある。つまり,物質性(しるし)が生む効果の無限性を認め,すべてがテクストであることあるいはテクストなどないことを主張してしまったことは,理論的必然のようにも見えるのである。「意図の誤謬」と「情動の誤謬」のうち,ポスト構造主義は「情動の誤謬」を犯すことにした。マイケルズはその必然的な結果を示しているのである。

 しかしマイケルズはそれと違い,「意図の誤謬」を犯そうと提案している。それが画期的である点は,意見の不一致を起こすことができる点である。しかし,そのことが何をもたらすかはまだわからない。

 テクストが効果をもつということを理解するのは容易だが,なぜ効果が意味ととりかえられなければならないのか,なぜ効果は,記号がしるしへ,意図が意図の効果へ「置換」されることをもとめているのかを理解することは容易ではない(p215)。

 どうやらまだマイケルズの糾弾は続きそうである。「なぜ効果が意味ととりかえられなければならないのか」「なぜ効果は記号がしるしへ置換されることをもとめているか」という問いの答えを考えているのだが,続くところを見てもまったくわからん。

 ここで「第二章 プレ歴史主義」が終わる。作者の意図をワンスアゲインすることで意見の不一致を得ることはできるが,それはこれまでの多文化主義的な多様性,あるいはシニフィアンの効果の無限性を否定することになる。そんな世界でもよいのか? 許容されるのか。あるいは,意図の導入さえも,「まあ解釈は自由だよね笑」という多文化主義のかなたに包摂されてしまわないか(私がここまでのマイケルズの論じ方を「ポスト構造主義の犯罪の立証であり弁護」と考えてしまうのはこのためかもしれない)?

 数々の疑問が浮かび,「第三章 歴史主義」と「コーダ 無意味の帝国」でこの疑問が回収されるのかどうか,マジで恐怖である。