「文学とは何か」読書メモ④ 新版あとがきについて

 

ポストモダン性とポストモダニズム

 イーグルトンは,ポストモダニズムについて多くの頁を割いている。例えばポストモダン性とポストモダニズムを説明している。

 ポストモダン性は,近代性(大きな物語)の終焉を意味する。あるのはただ,「多種多様な文化と物語」(p353)であって,階層秩序に整理することもできない。この世界でできることは「いかんともしがたい「他者性」を尊重することだけだ」(p353)。

 ポストモダニズムもこの世界観に対応している。作品は自身の世界の外を模倣する,少なくとも反映するという試みは否定され,みずからの虚構が虚構であると自己言及するしかなくなる。

 これと同様に政治性も自己言及でしかなくなる。わたしたちは,その関心や信念によって構成されているので,「それらを根本から問いなおそうとするのは,自分の皮膚から飛び出るにひとしい」(p356)。これは客観化して捉えようとする文化と自身とが共犯関係にあることになり,そうであるがゆえに批判は信用を失う。「超越的観点の崩壊は,純粋な政治批判の可能性の崩壊を,最終的に告げるものであった」(p356)。

 

政治性の隠蔽

 しかしこの論理――言説は,政治性を帯びることはできない――こそがドグマである,とイーグルトンは述べる。ポストモダニズムは,全体というものを考えることをできなくした。そのため,個人が対抗すべき「資本主義」や「父権制システム」も存在しないことになる。しかし,マルクス主義的なイーグルトンは,この論理によって,ある一定の人々による連帯ができなくなっていることを指摘している。

 当然,これはマルクス主義的に見ればそうであるということであって,そのため,イーグルトンは疑問の形でこの意見を提出している(p357)。しかし,この見方からすれば,例えばポストコロニアル理論も人々を分断している。ポストコロニアル理論が,「「他者」を「同一性」に還元することを,すべての政治的悪の根源とみなす」(p360)ものだからだ。ポストモダニズムは,確かに人々を分断する。イスラムの過激派が行うジハードや,オウム真理教が批判されやすく思えるのは,ポストモダニズム空間が,とりあえずの正解と思えるからだろう。

 

イーグルトンの最後

普遍的な価値の可能性を信ずる点において人文主義者は誤ってはいない。ただ普遍的な価値がいかなるもんどえあるかは,いまのところ誰にも正確には予測できないだけなのだ。なぜなら普遍的な価値を誕生させる物質的状況が,まだ到来していないからである。もしそのような状況が到来するのなら,理論は,それが政治的に実現されたことになるので,余剰なものとなるだろう。そのあかつきには理論家は,安堵のため息をつきながら,彼もしくは彼女の理論化作業を終えることだろう。そして目先をかえて,もっと面白いなにかに従事することだろう。(p365)

 恐ろしいことに,イーグルトンはここで筆をおく。何が恐ろしいかと言うと,あまりに平凡なのである。「物質的状況が,まだ到来していない」のであれば,理論家はまったくすべきことなどない。「あとがき」でマルクス主義の夢(言説が再び政治性をもつこと)はどこにおいてきたのか。

 これを1982年と1996年の政治的状況の違いと見てみよう。すると,イーグルトンが特に強調しているのは,冷戦の崩壊である。イーグルトンは,それを「ネオ・スターリン主義が,あらゆる社会民主主義者の願いが通じて,ついに打倒されたのである。それも西欧のポストモダニズムが悦に入って,もはや不可能か望ましいものでもないと決めつけていたような人民革命によって」(p342-343)。この説明の仕方によれば,ポストモダニズムは無力,つまり現実を見誤り,現実に影響を及ぼすことはなかった。しかし,それはポストモダニズムだけだろうか,それとも理論全体が無効なものなのだろうか。

 

理論の政治性

 今NHK吉本隆明を扱った番組(「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち第五回」)を見ているのだが,すべての言説が自覚的に政治性を帯びて話されているし書かれている。当然,こういう世界がありうるわけで,イーグルトンもコロンビア大学で通じるディコンストラクションも,南米のコロンビアでは通じまいと述べている。とすれば,問題は「理論」が袋小路に入ってしまっていることなのだが,イーグルトンが新版を書いて20年が経とうとしているけども,今でも正解は見つかっていないと言えるだろう。

 しかし,どんなに自己言及を行っても,それは政治性を帯びる。つまり,政治性をなくすことを理論(特にポストモダニズム〉は目指すけれども,それはどうやっても政治的にならざるを得ないのである。

 国語教育はこの政治性を自覚的に取り入れる必要がある。自身の生活に使用することのできる言語を,政治性を帯びている言語こそが必要なのである。それは,当然分断も連帯も可能な言語でなければならない。生徒は,このイーグルトンの試みを知る必要はない。しかし,イーグルトンの夢を国語を学ぶことで垣間見るべきなのである。