国語教授の目的論―明治38年と大正6年の差異―

 明治から大正にかけて国語科教育は変化した。西尾実によれば,

・第1期(明治初年〜明治末年) :語学教育的教授法期

・第2期(大正初年〜昭和10年頃):文学教育的教材研究期

・第3期(昭和11,12〜頃)   :言語教育的学習指導期

と変化している。ここでは,第1期と第2期の変化がどう異なっているのか,『教育研究』から探ってみたい。

 

1.明治末期の国語教授の目的

国語教授の目的は、元来から内容と形式に分けられて捉えられていた(授業案の目的欄には、よく「内容面においては…、形式面においては…」という記述が見られる)。『教育研究』でよく見られるのは、①形式主義か内容(実質)主義か、という記述であり、また②形式主義と内容主義の対立を止揚する記述である。内容と形式はどちらも重要であるという止揚がいくつか見られる。この際の形式とは語、文法、修辞法などの言語運用面のことであり、内容とはその言語が表す内容のことである。例えば「わたくしの家」という教材において、 実質方面においては「建築物として、且つ住居として、客観的に家を観察せしめ」、形式方面においては「むかふ、あそこ、ませう、ます、及び、との用法と杉、前の読み方書き方を授け」るとある(『教育研究』9号、西田常男、明38、p39-41)。ここで了解できるのは、内容と形式の対立とは、国語教授のべき論、目的論であることだ。国語教授の目的論を追っていけば、内容と形式の対立が主だった国語教授の問題に、どのような変化が生じたかがわかるだろう。

 そもそも、韻文教授において、先述の内容とは異なるものが捉えられていた。芦田恵之助の一連の韻文教授論(『教育研究』10,36,40号)がそれを表している。芦田は,韻文教授の目的を,

文字文章の媒介によつて,児童に美に対する趣味を感得せしむる

としている(『教育研究』41,p2)。これに似た記述は芦田恵之助だけでなく、同時期の西田常男の論文にも見られる。

本来韻文の性質より云へば,元より普通文の如く,一語一句,適切に其の内容を,解釈し得べきものにあらず,また其の解釈し得べからざるところに,韻文の韻文たる,妙味の存するものなり。(『教育研究』17,明38,p16-19)

つまり,「美に対する趣味」「妙味」を養成することが,国語教授の一つの目的として考えられていたということである。

 馬淵冷佑(『教育研究』58,明42,p36-38)は,国語教授の目的を整理している。馬淵は,「国語教授の実質的目的が,地理歴史理科などの智識を授け,徳性を涵養するにあるとするならば」,国語教授は他の教科になってしまうとし,国語教授の目的を以下のように整理する。

実質的目的

1,発音を教へる

2,言語を教へる

3,文字を教へる

4,文章を教へる

5,文学的趣味を養はしめる

(附)1,修身地理歴史理科国民教科実業の智識授与

      2,徳性の涵養

形式的目的

1,声音によつて表はされた他人の思想感情を正しく聴取つて,之を理解し,又自己の思想感情を正しく且美はしく話し出して,之を他人に伝へる能力を養ふこと。

2,文字によつて表はされた他人の思想感情を正しく読分けて,之を理解し,又自己の思想感情を正しく且美はしく書綴つて,之を他人に伝へる能力を養ふこと。

 

 先述した芦田や西田の韻文における「趣味」「妙味」は,「文学上の趣味」という範囲に入れることができると思う。これと「徳性の陶冶」は別物であり,「徳性の陶冶」は「文学上の趣味」と切り離されていた。

 

2.大正期の国語教授の目的 

 しかし、大正においてこれが同列に語られることがあった(村野幸二郎「国定読本に表はれたる情的文章と其の取扱」『教育研究』146、大5、p36-43)。村野は,修身歴史は「感情意志の陶冶を期せなければならぬ」,また図画・手工・唱歌は「情的教育の一方面」であるとする。しかし,

教育上に於てはこれ以上に猶情的教育の必要がある。之が本務を有するものは蓋し国語科であらう。

とし,この点から「国定読本の材料となる文章はこうだ」と2点性質を挙げている。

第一には道徳的感情陶冶に資すべき性質を有するものでなければならぬ。

第二には美的感情陶冶に資すべき性質を有するものがよいのである。

ここにおいて、道徳的陶冶と美的陶冶ということが並列して語られている。しかも,その2つの陶冶は,文学(情的文章)によるものである。私は,ここにこれまでとは異なる国語教授の「内容」が生まれたと考える。

 このような目的の変化,また文学の前景化は,大正6年に創刊された『国語教育』という雑誌にも見られる。雑誌『国語教育』の主幹であった保科孝一は,東京帝国大学助教授であり,教科書の国定化にも関わった人物である。

『国語教育』の創刊号の巻頭にある保科孝一「国語教育の価値」において,国語教育の主要な目的が挙げられている。

一,普通一般の国民文学を正確に自由に理解する能力を養成すること。

ニ,普通一般の国民文学の慣用に従ひ,思想及び感情を正確に発表する能力を要請すること。

三,熱烈なる国民的精神を養成し,崇高なる品性を陶冶すること。

以上三種の目的に附帯して,論理的思想の養成,観察力・判断力・思索力・分析力および総合力の増進,文学趣味の向上等も,おなじく国語科に与へられた重大な使命である。

一,ニにおいてそれまでの目的論を形式面では受け継いでいる。理解する能力や,発表する能力はこれまでと同様である。しかし,それが「国民文学」を用いたものであることがわかる。(国民)文学は,(国民)というかっこづきながら,国語の中で地位が向上している。品性の陶冶が目的とされ,その際に(国民)文学が用いられていることは,注目に値する。また,明治において文学上の趣味の向上>品性(徳性)の陶冶とされていたのが,保科においては逆転されていることも面白い。

「え? いつからそうなったの?」という感が否めないが,『教育研究』を観察する限り,同時代にここまでの意見は見られない。つまり,『国語教育』独特の主張が働いているわけだが,仮にも国語教科書の編纂に関わっている人なので,こういう主張も他に対する影響は大きかっただろう。

 以上のように,国語教授の目的は,明治38年から大正6年の間に,明らかな変化をしている。その際,「文学の地位が向上したこと」,「品性の陶冶が重要視されたこと」は間違いない。これらの変化はなぜ起こったのだろうか。いくつかの可能性をこの後調べていきたい。