「シニフィアンのかたち」読書メモ④

冷戦の世界

 1960年代に,モダニズム絵画とミニマリズム絵画の間で論争が起こった。ウォルター・ベン・マイケルズは,これを「物質性」(あるいは「かたち」)に引き寄せて解説している。どうやら,この論争が今まで見てきた「第一章 ポスト歴史主義」の議論(つまり冷戦以降の世界の議論)を先取りしているようなのだ。ここから「第二章 プレ歴史主義」が始まる。

 モダニズムがあらゆる客体がかたちをもつことだけでなく,それ以上に内容をもってしまうことを主張する(マイケル・フリードなど)のに対し,ミニマリズム(ドナルド・ジャッドなど)の目標は「その客体そのものとして存在する芸術作品を創造することにあった」(p151)。

 マイケル・フリードは,ジャッドの考え(「芸術作品はただ興味を誘えばよい」)に対して,作品は私たちに良いと感じさせるものであり,説得的なものだとしている。しかしマイケルズが正しく批判するように,「ただ興味を誘う」ことと「説得的なものである」こととは,フリードの望むような結果をもたらさない。フリードは「興味を誘う」ということを,作品が視覚検査のように鑑賞者にただ反応させることだと捉えている。それに対して,「説得的なものである」ことは,客体たる作品に何がしかの本質を認め,鑑賞者に作品へのコミットメントを許すだろう。しかし,この2つの何が違うのか。作品が説得してくることと反応させることとは同じことのように思える。フリードがそれを否定したいにもかかわらず。

 

効果の無限性

 しかしフリードの矛盾にもかかわらず,フリードが守ろうとしているものが何かはわかる。作品から作品の効果を取り除きたいのだ。

 ルイスの拡がり絵画を見る人が,あまりにもその絵画に熱中して,自分があるいている方向を見うしないカロの彫刻にぶつかってひどい傷をおったとしても,その傷はたしかにある重要な意味で,その絵画によってうみだされた行為の結果ではあるかもしれないが,だからこそ,その絵画の意味であるとはみなされないということである。(p162)

 マイケルズが以上のように例えるように,作品の効果は無限に考えることができる。この効果を限定しようと試みれば,デリダがそうしたように「倫理・政治的な応答可能性の次元」を用意しなければならなくなる。マイケルズによれば,フリードが注目したのは,「その無限さは,芸術作品としてのその地位とはなんの関係もないという点」にある。つまり,作品の効果の無限性は「客体の属性であり,芸術の属性ではない」(p163)という点である。

 つまり,フリードが批判したミニマリズムは物質性(あるいはしるし)そのものである作品で効果の無限性を生み出す。しかし,フリードが主張するのは,ミニマリズムは作品の意味を説いているのではなく,単に効果,あるいは絵画を見る者の経験を論じているだけであるということである。

 

ポール・ド・マン

 ポール・ド・マンも同じことを「自然な」対象と「意図的な」対象のちがいとして論じていた。ド・マンは「アメリカの新批評における形式と意図」(1971)において,新批評は意図的な物体(椅子などのように,感覚的印象だけでは記述できない物体。つまり「座られるために存在するもの」などの記述が必要な物体)を自然な物体として扱ってしまっていることを指摘している。しかし自然な物体と意図的な物体の差異に盲目であった新批評は,同時にある洞察をうみだした。

「文学的な行為を文学的な客体」に変換する新批評家は,そうすることで,精読といういとなみにコミットしながら,作者の「行為」によってうみだされたと理解されるであろう「単一の意味」ではなく,「意味作用の複数性」を発見することができた。(p187)

 テクストを単に作者の意図の産物とみなす者が見過ごす複雑性を,新批評家は発見した。ポール・ド・マンが新批評を評価する点はここにある。

 しかし,こう語ることで,ポール・ド・マンは意図的な物体と自然な物体の境界を危ういものにしている。自然な物体は理解されず知覚されるものである。つまり,意図的な物体(知覚するのではなく理解されるもの)と決定的に異なるものであるのに,新批評ではそれが「単一の意味のもの」と「複数の意味のもの」に還元されている。つまり,初期のポール・ド・マンはすべてが知覚の対象ではなく,理解の対象であることを主張しているように見える,とマイケルズは語る。

 初期ポール・ド・マンとは違い,「読むことのアレゴリー」におけるド・マンは,逆の論証をたどる。

 消えていくのは,「知覚」ではなく,「理解の瞬間」であり,そして,それが消えるのは,「理解」の対象であるところの「意味」とは,「幻想」にすぎないのだと論証するためである。(p190)

「読むことのアレゴリー」の最終論文である「盗まれたリボン」(1977)は,ルソーが自身の盗みを「マリオンがやった」と罪をかぶせた(『告白』)ことについての考察である。ポール・ド・マンは,「マリオン」が何を意味するかと問い,様々な解釈を提示するが,最終的には「マリオン」は何も意味しない,「彼の頭に浮かんだものをそのまま音にしていたのだ」と語る。つまり,「アメリカの新批評における形式と意図」(『盲目と洞察』)においてはすべてが意図的な物体であると論じたのに対し,「盗まれたリボン」(『読むことのアレゴリー』)においてはすべてが自然な物体であると論じていることになる。

 

今後の展開

 以下はまだ予想なのだが,マイケルズはポール・ド・マンのこの2つの立場を相互補完的なものとして論じるだろう。なぜなら,「盗まれたリボン」は自然な物体に意味をもたせることを拒否するものであって,自然な物体の効果を論じることを拒否するものではないからである。ポール・ド・マン的な物質性とは,これまでマイケルズが論じてきたもの(デリダ的なしるし)と同様のものであろう。そうであるならば,テクストの読解が物体の「効果」を論じるものであると規定すれば,すべてが意図的な物体であっても,すべてが自然な物体であっても,テクストの読解は成り立つ。物質性と多義的な反応は密接に結びついている。

 実は,このことは日本の自然主義が簡単にロマン主義と結びつくこととも関係している気がするが,それはまた後日。