湯原元一(1921)「教育對文藝の争闘」

教育と道徳の対立

 文藝はそもそも道徳と対立するものだった。湯原は,教育者の中で文藝を自主的に研究し正当に批評し得る人はいないとしながら,文藝とはそもそも反道徳的であると断言する。湯原の見た文藝の特徴を,以下3点にまとめる。

1. 文藝思想の生命は,奔放自在

文藝は奔放自在なものであり,そもそも体系をもつ道徳とは対立する傾向をもっている。

特に,現代西洋小説は,厭世的・頽廃的・耽溺的傾向を有する(例に出すのはゴーリキーやストリンドベルク)。個人主義や享楽生活・恋愛生活の賛美,鼓吹になっている。これを読むと,「作者の魔神も及ばぬ天才の閃光に眩惑されつつ,自らも厭世頽廃の人となる」。

 2.文藝における人間の心理と社会の状態は作者特有

一般の人は「よく自ら性的恋愛を管理して,自主自立し得る」。しかし,文藝においてはそれとは異なる特殊な人が出てくる。しかし,青年は特殊を普遍となし,人生に対する懐疑と恐怖が心を奪う。

しかも,悪事遂行の手段方法を事細かに教える教科書にもなってしまう。

 3.芸術家には順応性・変通性が必要

俳優なら演じる人物の性格に没入して己を捨て去るし,ピアノを弾くときはその曲の作者になりきる。

しかし,品性の人は,その特徴が前後の行為で一貫している。そのため,順応性ばかりでは困る。道徳の完成には少しは順応性が必要で,その点文藝は必要であるが。

 

湯原のレトリックは二項対立

典型的な二項対立の文である。湯原は,「道徳と文藝が互いに対立して人心の争奪」をしてきたと認識しているので,当然と言えば当然。文章の途中には,道徳と文藝の対立する点を列挙する箇所もある(「教育は曰く,信ぜよ。文藝は曰く,疑え」など)。

少し考えるべきなのは,道徳と教育との違いである。この文章では,ほぼ同じ意味で使われているが,一方で学生劇に触れる箇所では「教育的」と「道徳」との関わりを以下のように述べている。

素人の青年にやらせるのであるから,脚本の選擇などには教育的に十分の注意を拂ふことになつてゐる。尤も教育的とは,必ずしも單に道徳的であるとの意味ではない。唯非倫理的でなく,藝術的價値を有するものであればよい。

「教育的」は単に道徳的であるだけでなく,芸術的価値をもつものであると定義しているのだろうか。しかし,これまでほぼ教育と文藝の対立を挙げ,その中では「教育的」=「道徳的」という話になっているので,この論文の前半と後半の学生劇についての文章は,ほぼ別の論理で成り立っているとも言える。

湯原の攻撃した文藝はロマン主義自然主義

しかしまた一方で,文藝全体を否定的に見ているわけではない。

セークスピヤやゲーテの如き,主としてクラシツク物の紹介されたる時代は,別段の事もなかつたが,其の後ローマン派,自然派の小説が輸入されるに至つては,其の弊害が追々と著るしくなつて,風俗壊亂の故を以て,刊行物の發賣禁止なども随つて頻繁になった。

 確かにこの時期「風俗壊乱」という言葉があり,小説が発禁処分を受けていた。国が小説をターゲットとして風俗を乱さないように取り締まりを行っていた。

ここで,湯原はロマン主義自然主義の小説をもって,「文藝」となしてしまっているという疑いが出てくる。また,ゲーテロマン主義とかなり関係深い気もするぞとも思う。ともかく湯原が提喩的な発想で,ロマン主義自然主義を「文藝」に拡大して批判してしまったことは確かである。

 

湯原と片上が共有していた文藝の力

湯原に対する反論の仕方として考えられるのは,例えば以下のものである。

ロマン主義自然主義の小説が奔放自在なのは認める。しかし,それは「文藝」の一部である。したがって,「文藝」が教育・道徳と対立しない場合もある。
②「文藝」はより高次の道徳である。それが教育と対立することはない。「文藝」の豊かな部分を,教育に生かすことができる。

片上伸は,「文藝教育再論」(『藝術教育』大10.3,『文藝教育論』では「教育力としての文藝」と表題が改められている)で,湯原を批判するのだが,それは主に②の方法による。単なる徳目主義ではなく,文藝を読むことによってより相手のことを考えたりして道徳の実践的なことを教えられるのだ,と。

また,湯原は文藝によって世間が頽廃的になっていることに警鐘を鳴らすが,片上は文藝が世間ではまだ受け入れられていないとしている。微妙に噛み合わない論争になってしまっている。「文藝」の概念も社会の状況もきっと共有しているものは少ない。

彼らが共有している唯一のものは,文藝の力である。2人の中で文藝は,社会や人を揺るがすような,もしくは豊かにするような力をもっている。その共有された力だけが,この論争を起こすきっかけとなっている。