思考すること

 私に思考するきっかけを与えてくれたのは,一人の中学生である。

 彼は普段は大人しいがスイッチが入ると手を付けられない,いわゆる「キレる子ども」である。私が会ったのも彼がキレて人に迷惑をかけた後だった(「迷惑をかけた」では済まされないものだったが)。

 

 彼はキレるタイプであると同時に,頭はよく,人との距離感を考える力があった。そのため,大人に対しては敬語を使い,やんちゃタイプの先輩とは関わらないことを是としていた(それまで部屋に篭っていたのに,やんちゃな先輩がいなくなった途端にホールのテレビを見ながらゲラゲラ笑っていたのを覚えている)。

 

 正月のある日,神社に初詣に行くかどうかという話をしていたとき。彼は「神様なんていない」という話をしていた。私はなんとなく,彼の「頭がよいと思われたい」という欲と「世の中のことを否定したい」という欲を感じていた。そこで,「神様はいるよ」と放り投げてみた。結果,私と彼は1時間「神学論争」や「インテリジェントデザイン」の亜流を話し続けたのである。私は彼の論理を整理しながら,自分の論理をわかりやすく伝え,この論争が千年単位で平行線をたどっていることを教えた。

 これははっきりと自分にとって面白かった。なぜなら彼が真剣に私を否定しようと考えていたからだ。それから彼に会うたび「クイズ」と評して,ちょっとした論理問題を用意した。彼はすぐに「ああなるほど」と言う癖がある(頭がよいと思われたいから)ので,なるべく論理の順序を追わせた。

 

 最も面白く,また道徳的であり倫理的によくないなと思いながら好奇心で出してしまったのは,「学校はどういう論理で校則を設定するのか」という問題である。

 

 彼は「生徒をあぶり出す」ということには気づいたが,それを論理構造として明らかにすることはできなかった(この時点で論理の勉強をさせていない。つまり,私のいじわるである。学校の先生ではなかったから可能だったのかもしれない)。

 校則を設定する論理は,「スカートの丈などの小さい事柄を守れない者は,必ず他の大きな事柄で違反を犯す。そこで,校則を設けてそのような要指導の児童生徒をあぶり出す」というものである。もちろん,この論理はおかしい。校則は破らないが,簡単に犯罪に手を染める者もいる。

 学校がこのような論理の下で動いていることについて,彼は「俺は校則は破らないけど…」と話した。しかしそれ以上の言葉は出なかった。

 

 私にとって思考とは,疑うことであり,その後にもう一度論理を構築することである。実は,彼の思考の仕方が私に似ていたからこそ,思考の場(クイズ)に誘うことができたのだろうと感じている。彼は疑うことについては素養があった。その素養を伸ばし,次の段階に行くところで彼とは離れてしまった。

 この体験は確かに私に思考することの楽しさを再認識させてくれた。そして,思考することに誘惑する楽しさを教えてくれた。しかしまた,将来「私に似ていない子どもをどう誘惑するか」という壁が立ちはだかることを予感させてもいる。

 

 彼と離れてから1ヶ月後,私に手紙が届いた。「私からも問題残していきます。出し逃げです」とあり,クイズが3問あった。実は1問わからない。定期的に考えている。