ならずものがやってくる

「ならずものがやってくる」

最後の章はどう考えても悲しくないか?

彼はサーシャの住まいへと入っていき、そこにまだいる自分を見つけるー若かったころの彼自身を。
たくさんの展望とこころざしを持ち、まだ何一つ決まってはいなかったころの彼自身を。空想は彼をさらに駆り立て、希望を膨らませた。アレックスはふたたび呼び鈴を押した。そしてさらに待つうちに、それがゆっくりと失われていくのを知った。気まぐれな思いつきは失敗に終わり、そのまま消し飛んでいった。(p430)

アレックス(あるいはこの物語の語り手たち)は、「ならずもの」=時間が、「若かったころの」彼ら自身をぶっつぶしたことを知っている。そのおかげで、読者は何度もその挫折を味わう。この章だって、その挫折を味わうためのものではないか?

明日そうではない理由を探して、もう一度読んでみよう。

プレゼンする

恐怖

 卒論発表会というものがあって,今日その資料を提出した。しかし,あまりに恐い。特に,PowerPointによるプレゼン資料が,本当に見やすいかどうかを確認しないまま提出したのである。練習不足のため,不完全なまま提出した。とりあえず発表はまた後日なのでそれまでに練習するか…。

 

収穫

 しかし一個だけ収穫があった。それは,「タイトル+箇条書き」にしないことである。

プレゼンのプ 基礎から学ぶプレゼンテーション

プレゼンのプ 基礎から学ぶプレゼンテーション

 

  プレゼン準備が億劫になっていたので,「とりあえず準備してますよ」のポーズをとるために,上記の本を手にした。Kindleで100円だったので,ポーズには最適だった。

 そして「タイトル+箇条書き」の意味のなさを知ったのである。「タイトル+箇条書き」になってしまうのは,PowerPointのデフォルト設定がそういうレイアウトになっているからだ。実際,私も「タイトル+箇条書き」にしてしまっていた。

 そうではなくて,情報と情報との関わり方を視覚的に見せることが,PowerPointを使用する意味だと認識すること。これが重要なのである。

①改善前

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②改善後

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 しかしまあ,いまだにだめだけども。

 

 

 

 

 4月からまともな本屋あるいは図書館に行けないのでは疑惑があるので,今のうちに読んでおきたい本を読むということをやろうとしている。

 都甲幸治の『生き延びるための世界文学』を一つの指針にしようと思ったらこの中の本はほぼすべて未訳である。

 

生き延びるための世界文学: 21世紀の24冊

生き延びるための世界文学: 21世紀の24冊

 

  しかし,ほんとに面白そうなものばかりである。特にジェームズ・ソルターは気になる(一番自分に合うであろうジュノ・ディアスは既読)。ジェームズ・ソルターの短篇「ヤシの庭」の一節はぐっとくる。

 アーサーはノリーンのことをずっと考え続けた。彼女は僕のことを考えてるんだろうか? アーサーはよく思った。ほんの少しだけでも,彼女も僕と同じように感じているんだろうか? 何年経っても,何の変化もなかった。(都甲幸治前掲書,p223。訳は都甲幸治による)

 この一節について,ずっと昔考えたことがある。もう何年か前にジェームズ・ソルターとは出会っていたような気分である。あの時は「グレート・ギャツビー」と自分を重ねてみたが,ギャツビーはアメリカの夢と自分とを重ねるような奴なので,根本的に自分とは違う(しかし,同じような境遇の友人にグレート・ギャツビーを勧めたし,別の友人は生真面目にグレート・ギャツビーを自分のものだと思い込んだ。彼らは今一体どうしてるのだろう)。ジェームズ・ソルターは果たしてどうだろうか。

 しかし上述のように,紹介されている短篇集『最後の夜』は翻訳されていない(表題作の「最後の夜」のみ,岸本佐知子編『変愛小説集』所収)。

 

変愛小説集 (講談社文庫)

変愛小説集 (講談社文庫)

 

  Amazonを検索してみても,どうやらジェームズ・ソルターの本はすべて未訳である。ペーパーバック版が軒並み高い中,Kindle版で少しお安くなっている「All that is」を見つけた。

All That is

All That is

 

 しかしレビューの中に「100pまで読んだけど人多すぎてほんとわけわかんないよ」(超訳)というのを見つけたので,かなり躊躇。とりあえず『変愛小説集』で我慢しとくかね。 

 

※都甲幸治が自身の読書歴を少し語っている。高校生のとき文学を読み始めて,日本では村上春樹に反応し,『風の歌を聴け』がいちばん好きと言っている。私も同じである。長篇では「風の歌を聴け」だけ,何度も何度も読み返すことができる。短篇は,「神の子どもたちはみな踊る」含め,何度も読むべきものがある。

 

 

合格体験記

合格体験記っぽいのを書いた。

 

・学習スケジュール

 本格的に勉強を始めたのは4年次の2月でした。まず教職教養の参考書を5回ほど通して読み,そのまま覚えるということをしました。ある程度覚えた後,何度か問題を解き,覚えていない部分をつぶしていきました。この際,参考書をすべてiPadに入れておき,勉強から逃げられない状況を作りました。

 面接試験対策は5月に始めました。学生の中で行う集団討論や模擬授業なので,どのような話し合いをすればよいかもわからないままでした。幸い教員志望の仲間は上達が早く,自分も実力を上げてもらっているのを感じました。

 

・試験期間中辛かったこと

 苦労したのは,面接試験対策です。特に「望ましい教員像と自分とのかけ離れ」について悩みました。面接試験対策を重ねていくなかで「こいつすごいな」と思う友人が何人も出てきました。そのとき,彼らにあるものが自分にはないと感じることが多々あり,悲しい思いをしました。

 しかし,1週間考えて気づいたのですが,彼らにあるものが自分にはないと感じるのは当然なのです。そこで,自分のアピールポイントとまだ教員としてふさわしくない部分とを書き出していきました。そして教員としてふさわしくない部分については目をつぶり(今後伸ばすことにして),まずはアピールポイントを伝えられるような工夫をすることにしました。

 

・後輩へのアドバイス

 面接試験対策は,繰り返しの練習が必要です。特に「自分の話ってもしかして長くないか」と感じている方や「オチがないとよく言われる」という方は,話すことを1分にまとめる練習をするといいと思います。

 また,すべてが教員採用試験につながっていると考えることが重要です。試験対策をする中でなぜか好きな小説を何度も読み返したりしたのですが,本好きなのも教員になる1つの理由であり強みであると考えると,採用試験のモチベーションアップになりました。このように,教員採用試験の勉強は,改めて「教員としての自分」について考えることができるので,教員になる前に必要な勉強であるように思いました。

 

 ふざけているように見えるだろうか,それともすべっているように見えるだろうか。

口頭試問

今日口頭試問があった。そこでの議論を,以下にまとめる。

 

1.論文の目的と論文の構成がずれている。

 実際に,最初の興味と最後の興味がかなりかけ離れていたにもかかわらず,どのように構成し直せば良いか最後まで明確にならずにそのまま提出していた。

 具体的には,片上伸を追うと設定し,その影響関係を調べる過程で教育界言説を見ていると,そっちの方がメインになってしまった形である。先生からは,「第一章から第二章が離れすぎ」,もう一方の先生からは「まあ片上伸はきっかけにすぎないんでしょ?笑」と見透かされていた。

 大正期の教育雑誌『教育研究』にたどり着くのが遅かったのと,国語教育の歴史をもう一度見直す理由を思いつかなかったことによる。

 

2.「生命」という言葉が曖昧に使われている。

 大正期,「生命」や「人格」という言葉が曖昧に使われていた。様々な論者が「生命」「人格」が使用したが,その言葉の内実は異なる可能性がある。この言説について調べるのなら,もっと厳密にそれぞれの言説にどのように差異があるかを見なければならないのに,私の論文ではそれを行わず,マジックワードとして機能してしまっていた。これは,鈴木貞美への批判にも使われているらしい。つまり,どれも「生命」「人格」の範囲内と言えてしまうではないか,と。

 生命主義の言説に入るかどうかを,かなり曖昧な基準で判断していた。「生命」という言葉が使われ,「人間の本質として…」とか「総合的に…」という話があると,大体生命主義であるとしていたと思う。

3.その他の歴史的背景とのつながりが薄い

 今回の論文は,様々な範囲で論じることが可能なものだったが,恣意的にその範囲を調整していた。つまり,当然触れられていておかしくない物事を無視し,うまく論にはまる言説だけを論文に取り入れていた感がある。例えば,「旧制高等学校教養主義と,教育界での人格主義・生命主義の言説との関連はどのようなものか?」「「人格」「生命」という言葉は,この後の時代にどのように運用されていったのか?」「なぜ国際主義から,再び国家主義になっていったのか?」などの質問に答えることはできなかった。

 恣意的になっていたのはある程度しょうがないが,質問には答えたかった。実は教養主義との関わりは始めは考えていたが,調べてもうまく関わらせることができずに終わった分野である。今後調べてったら面白いかもー。これは今日気づいたけども対比的に捉えるとよいかもしれない。つまり,旧制高等学校教養主義vs小学校段階の人格主義・生命主義である。階級的なものも透けて見えてくるかもしれない。

4.歴史研究の今日的意義

 面白い話ではあるけれども,わざわざ大正期を調べることで,今日に跳ね返ってくる何かはあるか? という質問。教育者がよかれと思ってしたことが,結果国家主義的になってしまう中で,あなたはどうしますかと聞かれた。当然,どうすればいいかも何もないのだが,とりあえず生徒に考えさせることしかない,読む内容ではなく,読むこととは何か,読んでいる自分とは何かを考えさせるしかないということを話した。

 当然,ここに答えはなく,現時点ではこのくらいしかない。方法論を研究したわけではないので,生徒に考えさせる方法論はこれからである。

おまけ

 今後もっと深めるときに有用な情報をいただいた。

1.有島武郎が,「本能」という言葉を使用している。「本能」によって全生命がつながっているという前提の下,教育論を語っているらしい。
2.第一次世界大戦関東大震災前後の文化ナショナリズムによる国家主義国際連盟発足による国際主義→昭和の戦争に向かう超国家主義という流れがある。生命主義に基づけば,国際主義から超国家主義になぜすんなり移行できたかわかりにくい。ここで,「近衛文麿」という総理大臣を調べるとよいかも。ちょっと白樺派っぽいとこがありながら,超国家的なことを語りだした人である。しかもちょい調べると学生時代は社会主義にシンパシーを感じていたみたいである。この近衛文麿と,マルクス主義者の転向とは,親近性が高い。そこと生命主義の関わりを見てみることがよいかもしれない。
3.生命主義によってエリートでない人たちが,国家主義に動員されていく過程を見るときに,綴方というのも大事な観点になる。今後そっち調べるとよいのでは?

 

 

常識・習慣の自己啓発

 常識や習慣の力は恐ろしい。

 常識は,意識もできあがってないころにたった一度起こったことを覚えることで作られる。

 習慣は,何度も何度も繰り返して作られる。

 常識や習慣を疑うことはできる。何かを学ぶということは,常識・習慣を作ることではなく,まずは常識・習慣を疑うということから始まっている。よく自己啓発で言われるのは,なぜと疑うことだ。『トヨタ生産方式』という本では,ある事象についてなぜを5回繰り返すことで,問題の要因を探ることができるという。自身の行動にこの「なぜなぜ分析」を行うことで自身の行動の効率性・合理性を上げることができる。常識や習慣に囚われて見過ごしていた観点に気付くための技術であろう。

 

トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして

トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして

 

 

 しかし,常識や習慣というものは,確かに強い。例えば,「なぜなぜ分析」も,そういう分析を習慣とすることによって成り立つのだから。そして,常識というのも,それぞれの人間が暗黙の内に見出した人々の行動であり考えであるので,実際の事象と関係なしに常識の力は発揮される。それに加え,なんども常識を疑うことなんてできるだろうか。歯を磨くこととか,あるいは体を洗うことについて,あるいはトイレでのおしりの拭き方について。

 常識や習慣をすべて疑うことは,私たちの能力的に,あるいは習慣的に止められているのである。逆から言えば,そのようになぜを止めることが常識であり習慣である。

 なぜを止めることで常識や習慣がある。厳格なキリスト教イスラム教,仏教などが常識や習慣を重視していたのは,理由があるのである(神とは「なぜ」の最終地点なのだから)。

 

 

自然主義と常識,「ありのまま」アイデンティティ

・国語教育における読方教育が自然主義的な「ありのまま」を基に理論化された(垣内松三)のと同様に,その時代の作文も自然主義的な価値観が導入されていた。形式から内容へという流れも同様である。

 

「いい文章」ってなんだ? 入試作文・小論文の思想 (ちくま新書)

「いい文章」ってなんだ? 入試作文・小論文の思想 (ちくま新書)

 

 

自然主義が犯人であるように見えるが,それは自然主義がそう加工したものである。

自然主義が万能型理論武装術語であったために,田山花袋石川啄木プロレタリア文学アナキズム自然主義が出発点であるかのように語られてしまう。

・あるいは,自然主義は伝統主義とも接続される。大正後期の『早稲田文学』は文芸誌から研究誌に傾き,古典や明治文学を扱って日本文学研究の領域を創出しながら巧みに自らをその歴史の中に包むこむ。

自然主義がこうも強いのは,主観と客観の絶対化を図る点にある。主観も客観もどっちも「ありのまま」にしましょうよ,「ありのまま」にすれば人格的でいいことなんだから。

・これらはある種人々の常識に基いていたのではないのだろうか。中産階級や知識人が納得できる,素朴であることの価値,あるいは貧乏っていいよね的な価値観の反映なのではないのか,なんて疑っている。

・主観と客観の絶対化が,貧困をアイデンティティとするのを妨げてきた(byマイケルズ)というが,大正時代それに続く昭和は,貧困がアイデンティティとなっているような,あるいは貧困が「帝国」への回路であるとされていた時代だった。