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今さらながら、原爆問題としてのこうの史代の「夕凪の街、桜の国」の論考を読んだ。原著は『原爆文学という問題領域』。
私が素朴に受け取っていたことは、日本という国を簡単に肯定する=自分を肯定するための論理を使っていたという感じがする。こわいねえ。そして、作者のこうの史代自身もそんな感じをただよわせる人なのだ。
ここで、自分的には「夕凪の街」を擁護して、「この作品は戦争の残酷さを示すために『あえて』日常を写しとっているのだ」と評することもできる。そして、その感じは好きなのだ。でも、その『あえて』の身振りは與那覇潤『平成史』
の見方を導入すれば、もうダメなのだ。なぜ、有効でないか。もうそのイデオロギーさえも信じられないからだ。「夕凪の街」で言えば、もう日常が仮構されていることを私たちが知ってしまったためだ。もうその時点で、こうの史代の漫画は現実社会に効力をもたなくなる…とも言える。いや、宇野常寛の言うように、この時代ではなく、この物語は戦後に必要だったのだ。思考すること
私に思考するきっかけを与えてくれたのは,一人の中学生である。
彼は普段は大人しいがスイッチが入ると手を付けられない,いわゆる「キレる子ども」である。私が会ったのも彼がキレて人に迷惑をかけた後だった(「迷惑をかけた」では済まされないものだったが)。
彼はキレるタイプであると同時に,頭はよく,人との距離感を考える力があった。そのため,大人に対しては敬語を使い,やんちゃタイプの先輩とは関わらないことを是としていた(それまで部屋に篭っていたのに,やんちゃな先輩がいなくなった途端にホールのテレビを見ながらゲラゲラ笑っていたのを覚えている)。
正月のある日,神社に初詣に行くかどうかという話をしていたとき。彼は「神様なんていない」という話をしていた。私はなんとなく,彼の「頭がよいと思われたい」という欲と「世の中のことを否定したい」という欲を感じていた。そこで,「神様はいるよ」と放り投げてみた。結果,私と彼は1時間「神学論争」や「インテリジェントデザイン」の亜流を話し続けたのである。私は彼の論理を整理しながら,自分の論理をわかりやすく伝え,この論争が千年単位で平行線をたどっていることを教えた。
これははっきりと自分にとって面白かった。なぜなら彼が真剣に私を否定しようと考えていたからだ。それから彼に会うたび「クイズ」と評して,ちょっとした論理問題を用意した。彼はすぐに「ああなるほど」と言う癖がある(頭がよいと思われたいから)ので,なるべく論理の順序を追わせた。
最も面白く,また道徳的であり倫理的によくないなと思いながら好奇心で出してしまったのは,「学校はどういう論理で校則を設定するのか」という問題である。
彼は「生徒をあぶり出す」ということには気づいたが,それを論理構造として明らかにすることはできなかった(この時点で論理の勉強をさせていない。つまり,私のいじわるである。学校の先生ではなかったから可能だったのかもしれない)。
校則を設定する論理は,「スカートの丈などの小さい事柄を守れない者は,必ず他の大きな事柄で違反を犯す。そこで,校則を設けてそのような要指導の児童生徒をあぶり出す」というものである。もちろん,この論理はおかしい。校則は破らないが,簡単に犯罪に手を染める者もいる。
学校がこのような論理の下で動いていることについて,彼は「俺は校則は破らないけど…」と話した。しかしそれ以上の言葉は出なかった。
私にとって思考とは,疑うことであり,その後にもう一度論理を構築することである。実は,彼の思考の仕方が私に似ていたからこそ,思考の場(クイズ)に誘うことができたのだろうと感じている。彼は疑うことについては素養があった。その素養を伸ばし,次の段階に行くところで彼とは離れてしまった。
この体験は確かに私に思考することの楽しさを再認識させてくれた。そして,思考することに誘惑する楽しさを教えてくれた。しかしまた,将来「私に似ていない子どもをどう誘惑するか」という壁が立ちはだかることを予感させてもいる。
彼と離れてから1ヶ月後,私に手紙が届いた。「私からも問題残していきます。出し逃げです」とあり,クイズが3問あった。実は1問わからない。定期的に考えている。
ディパーテッド
『ディパーテッド』見た。
深いとこなんてなく,もうただただ面白かった。北野武『アウトレイジ』と同じように,途中から笑けてくる。こいつは死ぬんだろうけど死なないでー的な役もきちんと配置した上で殺す。また,お前は絶対幸せになるな的な役も,死なないのかと落胆させておいて,やっぱり殺す。なぜこうも楽しんだか。
ディカプリオが大好きで,今回はなんとなくいい役なのだが,『ウルフオブウォール・ストリート』『ジャンゴ』でも見られる怒り狂ってしゃべくる感じはやっぱ素晴らしい。誰かディカプリオにオスカーを(ディカプリオは表向きアカデミー会員に好かれているが,こっそり机の下で手紙でも回っているのだろうか)。
ちなみに,「銃と向きあえば警察もマフィアも違いはねえ」という言葉があった。
この映画では,これだけが真実である。
上の画像の場面で,ディカプリオと,警察学校同期の黒人は銃を撃たない。それに対して,マット・デイモンともう一人の裏切り人は撃つ。この場面は「根っこが警察だから撃たない」「根っこがマフィアだから撃つ」といったもので説明するよりも,もっとよいものがある。
つまり,「撃たない方が保身になるから撃たない」し「撃つ方が保身になるから撃つ」のである。警察でもマフィアでも身内同士で罵り合い,殴り合う。警察とマフィアが出逢えば躊躇なく撃ち殺す。ほんとにバカな話。